2012年05月07日

<政事家>大久保利通 近代日本の設計者

“政事家”大久保利通―近代日本の設計者 (講談社選書メチエ) [単行本] / 勝田 政治 (著); 講談社 (刊)

 大久保利通の評伝かと思ったけど、そうではなく大久保の国家論を分析した書。

 大久保は西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑とされながら庶民受けは良くない。西郷が情の人であるに対し大久保は理の人で、冷酷無比な策謀家というイメージがこの政治家にはつきまとっている。

 本書の著者勝田政治さんは一般に抱かれがちな大久保利通=ひどい奴タイプの等式を排した上で、大久保の描いた国家構想、彼は近代日本がどのような姿を目指すべきと考えていたのか、との問いに取り組んでいく。

 本論に入る前に、大久保が冷たい専制主義者だとするのは誤解である、と同時代の複数の自由主義的言論人が考えていたことが紹介され、新たな発見だった。そこで取り上げられたのは小野梓、中江兆民、馬場辰猪の3人で、三者三様に大久保を「奸」だと見なすのは誤りであり、彼は日本が近代国家に生まれ変わるにあたりものすごい手腕を発揮した偉大な政治家だった、と評した。3人の中でいちばん有名なのはやはり「東洋のルソー」中江兆民なので、兆民の意見を見てみよう。

 大久保は凡派の豪傑である。日本の法律・経済・道徳に今日の方針を与えたのが大久保である。大久保でなくとも日本の「欧化事業」は可能であったろうが、彼がいたためにこの事業は「堅固」に成就され、「障碍」にあわずに今日の如くに成就されたのである。
 士族反乱とくに西南戦争に際し、大久保のような「剛毅」なる態度をとらなかったならば、「欧化事業」は大頓挫をきたし、文明の潮流は一時かき乱されたであろう。大久保の「屹然」たる態度は激流のなかでも動じない柱のようである。
(本書、p12)

 いくら大久保が「非情」な人物であったとしても、大久保が三傑の中で近代国家建設に最も貢献したことは事実として動かしがたい(幕府を倒すまでは、西郷、木戸(桂小五郎)の方が躍動的で、英雄的であったかもしれないが)。それゆえ日本の近代を扱う歴史学では大久保が3人中最もよく扱われるし、また評価もされる。
 さてそれでは「大久保のめざしていた国家」、「大久保が描いていた近代日本像」(p18)とは何だったのか。

 幕末に島津久光の下で国政参加を目指し活動を始めた頃から内務卿として明治政府の最高実力者になるまで、大久保の国家ビジョンが一貫していたわけではもちろんない。はじめのうちは徳川慶喜に期待して公議政体論を抱き、慶喜が期待はずれだと判断した後には倒幕へ傾いていった。
 
 戊辰戦争で新政府軍(官軍)が優勢になると有力諸侯の合議ではなく天皇親政によって政治を進めるべきだとする考えを明確にし、中央集権化を模索していった。

 中央集権化といえば廃藩置県が連想されようが、大久保は一直線に廃藩置県へ向かったのではなかった。版籍奉還後には「府藩県三治体制」なる構想の実現化に動き、廃藩置県よりは穏やかな集権化を行う方針だった。しかし、大久保の主君島津久光その人が藩による統治が圧迫されると訴えこれに反発し、藩の存在は集権化にとってやはり厄介なことが露呈した。そこで「一大飛躍」として敢行されたのが廃藩置県だったのである。

 廃藩置県を成し遂げた後に大久保は世界を見聞する旅に出る。岩倉使節団の欧米派遣だ。この体験がやはり大久保の国家構想に対し最大のインパクトをもたらした。日本がモデルとすべき国、目指すべき道を見定めたのだ。それは、勝田さんによれば、イギリス型の国家だった。
 従来の通説に従うと、大久保が模範と考えたのはビスマルクのドイツであり(本書、p19)、「常識」に挑戦する見方を示している点で、「イギリス目標説」は本書の最も注目すべきところだ。その具体的な説明として、欧米視察を終えた本書後半部において、「民力養成論」が登場する。

 岩倉使節団はアメリカの後にイギリス、フランス、ドイツを訪問し、その後ロシアに赴いた。ところが大久保はロシアまでは行かず先に帰国している(木戸孝允もほぼ同時期に帰国)。理由はもちろん、留守政府の混乱による。明治6(1873)年、政府は征韓論に揺れていた。征韓をリードしたのが周知の通り西郷隆盛で、大久保は反対の立場を取り、ついに幕末動乱以来の盟友と道を違えることになる。この時大久保とともに岩倉具視が征韓反対の立場を強く打ち出した。岩倉・大久保は欧米視察の経験から、対外的な積極策よりも国内の整備が先だ、として「内治優先論」を主張したというのが教科書的な捉え方であるが、勝田さんはこれに疑問を呈し、岩倉や大久保の真意に迫った上で「民力養成論」を表明している。

 岩倉は帰国後、その後の施策について各省および参議に次のような諮問を行ったという。今後は専ら「国政を整え民力を厚くすべき」ことに「奮勉」するつもりである。したがって、その「目的」に沿うような「見込」を申し聞かせてほしい。(本書、p150)国政の整備し民力を厚くすることが欧米巡歴の経験から得た目的であって、その方向が国家目標として確定されたのが征韓論政変だったのである。
 
 征韓論政変直後に、明治天皇への上奏文が大久保・岩倉をはじめとする征韓反対派によって作成され、その中で以下の議論が展開された。
 明治政府の一大目標である条約改正は一朝一夕に実現することはとてもできず、「実効実力」がなければ国権を回復することは困難である。条約改正の実現のためには「実効実力」をあらわすことが絶対に必要であり、当面の課題は「実効実力」をあらわすために、「政理」を整えて「民力」を厚くすることにあるという結論に達した。そこで、今後の国家目標は、「民力」を厚くすることによって「実効」を立て、その「実力」をもって国権を回復することでなければならない。(本書。p153)

 ここから勝田さんの「民力養成論」が導かれる。民力養成を第一義とした近代化による国権回復が大久保の設定した国家目標であり、また征韓に反対した主要な理由であった。それに関する部分は暗記項目「征韓論と内治優先の対立」の見方ををがらりと変えてくれ、面白い。
 先の上奏文は「軽く」行う「外事」を否定し、「外事」は国内状況と国際状勢を考慮し、「順序目的」を定めて実施する必要があることを強調している。つまり、民力養成論は外征策と矛盾するものではなく、それらを含む総合的・統一的せいさくとして提起されているのである。ただし、民力養成を最優先させることから、外征策でも対外戦争はそれを阻止する要因として否定されてくる。民力養成論と矛盾するものは、あくまでも対外全面戦争なのである。
 この観点から、西郷の朝鮮遣使論は「緩急」を無視した拙速な開戦論であるとして批判される。大久保が執拗に西郷遣使論に反対したのは、日朝戦争という対外戦争の可能性が大きいと判断したからにほかならない。内治優先論や平和主義などからの反対論ではなかったのである。
 征韓論政変は従来、大久保が内治優先論から西郷の征韓論に反対し、西郷ら征韓派参議の辞職により、大久保が政府内の主導権を握った政治事件であると理解されてきた。大久保の主導権掌握は確かであるが、征韓論政変の意義はそれにとどまらず、国家目標としての民力養成論が確定されたことにある。
(本書、p153〜154)

 大久保はイギリスで様々な工場や貿易の盛んなことを目撃し、その「富強なる所以」を知った。日本の目指すべきはイギリスのような民の力を強くして国力を増強する国家だと大久保は考えた。勧業行政を進めるに当たって大久保の建議書は次のような指摘をしていたという。イギリスの海運業の隆盛が「工業」の繁栄をもたらし、自由貿易がイギリスの富強の源である。必ずしもイギリスの事業に「拘泥」して「摸倣」することはないが、我国今日「大有為」の時に際し、「地形」や「天然の利」が「類似」していることからも、よろしく「規範」とすべきである。(本書、p169)

 「上からの近代化」よりも「民力養成」を大久保の国家ビジョンの中心に据えるなら、「殖産興業」も教科書よりソフトな感覚で見直すのが適切かもしれない。事実大久保がトップにいた時期の内務省は、警察行政よりも勧業行政に力を注いでいた。治安維持以上に国を興すことが内務省の任務とされていたのである。内務行政の基本目的を述べる際に大久保は「民業を振励する」という言葉を使ったが、「民業」は「工業」に限定されない、農・商業をも含む「人民百般の旧業」(在来産業)という広義の概念として用いられた。 「民業」の中でも農業が特に重視され、大久保自身も邸宅で農作物をいろいろ栽培していたらしい。イギリスモデルの近代国家を目指すといっても、西欧の物質文明の導入に限られないより広い視野をもって国力の増強、近代化への努力が行われたと認められるのではないか。
 
 征韓論政変後間もない頃、大久保は伊藤博文にある意見書を示した。その内容は大久保の立憲国家構想だった。大久保はそこで民主政治と君主政治の双方を斥け、理想の政治形態として「君民共治」の制を提起する。当面の間は君主政治を採用すべきであるとも言っているが、それは一時的な経過措置で、目標ではない。
 「君民共治」とはどのような内容か。それは君主と人民の協議によって制定する「国憲」(憲法)に基づいて君主が国政を運営する形態、すなわち立憲君主制を意味している。そして、「国憲」とは君主と人民間の権限を定めるもの、つまり君主と人民それぞれの権限の範囲を明確にし「至公至正」で君民とも「私」することのないようにするものである。この「君民共治」によって「民力」と「政権」が「併馳」して、真の開花が可能になるのである。意見書はそのようなことを説いた。(本書、p154〜155)
 これはイギリスの統治構造をモデルにしていると見ることができる。イギリスの繁栄は、人民が国家の自主を企て、国王も人民の能力を活かすことのできる、というような政治形態によってもたらされたと大久保は考えた。そこから、国家の発展を担う「人力」とその「人力」を「愛養」する政体が国家の隆盛をもたらすのであり、この政体こそが「君民共治」にほかならないと結論づけている。

 「あの人がもっと生きていれば日本の姿は違ったものになっていただろう」と言われる人物は近代史上に何人もいる。庶民のヒーロー坂本龍馬がその筆頭格だろう。歴史学、政治学の視点からは伊藤博文、陸奥宗光、原敬、加藤友三郎、永田鉄山などがリストアップされると思う。しかし明治初期という時期的な問題もあってか、大久保利通の存在がそのイフにとって最も大きいと感じられてしまう。あと10年生きていれば、憲法体制や産業構造、大陸国家か海洋国家かといった広汎な分野で日本が違う進路を辿った可能性は十分にある。本書によってドイツモデル以外の選択肢を考えさせられた。

 だから僕は中江兆民に賛成したい。大久保利通は「豪傑」で「大政事家」であった。
posted by navy at 08:00| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする