![パクス・ブリタニカのイギリス外交―パーマストンと会議外交の時代 [単行本] / 君塚 直隆 (著); 有斐閣 (刊) パクス・ブリタニカのイギリス外交―パーマストンと会議外交の時代 [単行本] / 君塚 直隆 (著); 有斐閣 (刊)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41TJKTPX2SL._SL160_.jpg)
19世紀半ばのイギリス外交をリードしたパーマストンを主役にした外交史研究。「会議外交」がキーワードである。
君塚さんの著書は他にも、中公新書から出ているヴィクトリア女王の評伝を読んだことがあった。
![ヴィクトリア女王―大英帝国の“戦う女王” (中公新書) [新書] / 君塚 直隆 (著); 中央公論新社 (刊) ヴィクトリア女王―大英帝国の“戦う女王” (中公新書) [新書] / 君塚 直隆 (著); 中央公論新社 (刊)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/31GZiU5-kgL._SL160_.jpg)
新書でも一次資料を駆使した叙述で面白く、本書はさすがにレベルが数段上がったものだった。伝記的研究とはこうするものだ、と言わんばかりの精査ぶりである。
パーマストンは、アジアではアヘン戦争時のイギリス外相として有名だろう。林則徐によるアヘン取り締まりを、清国を開国させて自由貿易をさせる好機と捉え、戦争まで事を運んだ強硬な政治家という像がパーマストンには付きまとう。だが彼はヨーロッパにおいてはイギリスの国益を考慮に入れつつ平和を希求した外交指導者だった。君塚さんも指摘するとおり、パーマストンが活躍した時期には列強間に条約が結ばれた後小国を犠牲にした領土の分割、山分けがされなかったこともあり、19世紀にウィルソンの理念が実現した、といいうる状況があったことは注目に値する。
本書は1830年の外相就任からその死に至るまで、パーマストンの(対欧州諸国)外交を追跡し、その成功と失敗を論じてた研究である。
パーマストンがイギリス外交を率いた時期は、ちょうどイギリス(大英帝国)が圧倒的な海軍力をもって覇権国としてヨーロッパはじめ世界の平和・安定を維持したいわゆる「パクス・ブリタニカ」の時代であった。その平和も、ただ強大な海軍が存在するだけで達成されるのではなく、粘り強く精力的な外交政策があればこそのものだったのである。
通史的な構成になってはいるが、章ごとにケーススタディを行っている。ベルギー独立問題、ムハンマド・アリーの出現による東方問題、二月革命と三月革命、クリミア戦争、デンマーク問題、それら全てにパーマストンは外相、時には内相、あるいは首相として立ち会い、大英帝国を代表して対処にあたった。
緊迫した外交交渉が丹念に論じられ、知らない名前もどしどし出てくるので、状況を細かく把握するのは難しかった。
数多のパーマストンのライバルの中に『ヨーロッパ文明史』のギゾーも登場する。はじめは駐英仏大使として、やがてフランス首相として、1840年代のヨーロッパ外交においてギゾーはパーマストンと対峙した。本書と『ヨーロッパ文明史』をほぼ同時期に読んだのは不思議な巡り合わせであった。
パーマストン外交の眼目は「会議外交」(Conference Diplomacy)であって、これと対になるものとしてウィーン会議後にメッテルニヒが主導して構築した「会議体制」(Congress System)がある。両方とも会議を開催して各国の利害を調整し、外交を進めることに変わりはない。ただ後者は、首相、外相など各国の元首クラスが集って話し合い、自由主義、民族主義の動きを弾圧したのに対し(ウィーン以後のトロッパウ、ライバッハ、ヴェロナでの会議が有名である)、前者は開催国の外相の下に該国に駐在する大使が集まってイデオロギー色の薄いプログマティックな問題解決を行う、という違いがあった。
いたずらに下からの突き上げを弾圧することなく、より現実に即した解決をする「会議外交」こそがパーマストンの真骨頂であり、ベルギー独立問題と第二次エジプト=トルコ戦争を処理した2つのロンドン会議において彼は華々しい成果を上げた。ベルギー独立を軟着陸させたロンドン会議について、君塚さんは次のような評価を下す。
パーマストンはロンドン会議で、それまでメッテルニヒ主導型の会議に深くかかわって、自由主義・民 族主義の動きを抑圧する政策に荷担せざるをえなかったカースルレイの外交と、会議体制から一歩も二歩 も離れて、会議によらずに独自の個別交渉で政策を進めたカニングの外交とを、バランスのとれたかたち で融合し、会議外交を基盤に据えた「パーマストン外交」ともいうべきものを新たに創成した。つまり、 ヨーロッパ国際政治に危機が生じるような場合には、ロンドンを舞台とする外交交渉によって中立的な立 場から積極的にこれにかかわる、というものである。(p66)
また、ムハンマド・アリーをシリアから撤退させ、エジプトを支援したフランスを含めたロンドン条約(1841年)を成立させた際の記述も、パーマストン外交のエッセンスをうまく表現している。
彼(パーマストン―筆者註)は、ヨーロッパ国際政治のさまざまな同盟・敵対関係から超然と離れてい ながら、何か問題が生じたときには、その超然他る立場を利用して中立的な姿勢で列強から信頼を集め、 いつしかイギリスが主導権を握るかたちで問題の解決にあたっていったのである。それは、一八一〇‐一 八二〇年代にメッテルニヒによって確立された会議体制とは異なり、むしろこれを打破するかたちで、ロ ンドンを舞台とする会議外交を主軸に据えた、ヨーロッパ全土を舞台とする内外表裏すべての外交関係に よって支えられた、パーマストン流の外交であった。(p111〜112)
このようなパーマストンの外交は高坂正堯さんが名著『古典外交の成熟と崩壊』において論じた勢力均衡を維持する「バランサー」としてのイギリスをストレートに体現しているといえよう。ウィーン体制を支えるバランサーの役割を最もよく発揮した時代のイギリスを代表していたのが、他ならぬパーマストンであった。
パーマストンの会議外交の根本的な目的は何だったかというと、それはナポレオン戦争のようなヨーロッパ全土を巻き込む大戦争を防ぐことにあった。そのためにもイギリスは特定の国と同盟関係を結ばず、大陸ヨーロッパの勢力を調整できる立場を常に求めたのであった。ヨーロッパが安定していることがイギリスの国益に最も資する。そのためにパーマストンがとった手法が、イデオロギーに染まらず、単独行動主義にも傾かないで、現実的に利害を調整できる会議外交だった。「イギリスには永遠の同盟国もなければ、永遠の敵対国もない。イギリスの利益こそが永遠であって、不滅なのだ。」という彼の言葉は自身の外交理念、信念を簡潔明瞭に言い表しているだろう。
君塚さんは本書の終盤で再びメッテルニヒと対比させながらパーマストンの特質を確認している。
パーマストンにとって、ウィーン体制下の平和を維持するために自由主義や民族主義の動きを押さえ付 けることは逆効果に思われたのである。初めはこれらの動きを強大な軍事的圧力の下で抑圧できるかもし れない。しかし、いずれは彼らの不満も頂点に達し、革命が生じてしまうだろう。パーマストンが最も恐 れたのは、大国に革命が生じて権力に空白が生まれ、それが引き金となって再びヨーロッパ大戦争に発展 してしまうことであった。(p273)
パーマストン流の外交がよく成功したのは、本書前半においてであって、1848年の革命以後ヨーロッパが様変わりしてからの後半では、それまでのような成果を上げられなくなる。特にクリミア戦争以後はナポレオン3世のフランスやプロイセンがめきめきと台頭し、(ヨーロッパおける)「パクス・ブリタニカ」にも翳りが見え始め、叙述も哀愁漂うものとなった。しかし君塚さんの書き方は冴え、物語を読んでいるよう気分を与えてくれる。
パーマストンはクリミア戦争の終結後、ヴィクトリア女王からガーター勲章(イギリス最高の勲章)を授与されるのだが…
イギリス最高の栄誉をつかんだのは事実であるが、イギリス自体がヨーロッパ国際政治において勝利を つかむことはできなかった。イギリスは完全なる勝利を、ロシアはバルカン(および不凍港)をそれぞれ あきらめた。このたびの戦争で勝利を収めた者、それはウィーン体制下のヨーロッパに新しい国際秩序を 形成しようと登場し、パリの国際会議で列強感を巧みに調整した、フランス皇帝ナポレオン三世であっ た。この外交的な成果に気をよくした野心家の皇帝は、この後、パーマストンのそれとは異なった独自の 会議外交を展開し、ウィーン体制の打破に向かっていく。パーマストン老卿の胸に輝くブルーリボンは、 どこか寂しげにその光彩を放っていた。 (p205)
本書ではパーマストン以外の人物たちも舞台脇に追いやられずに活写された。グレイ、ジョン・ラッセル、ランズダウン侯、クラレンドン、ダービ、マームズベリ伯、アバディーンなどなど19世紀のイギリス政界を彩った人物たちについて新しく知ることが多かった。人柄の面では反りが合わずとも、政治家としてはパーマストンを評価するようになったヴィクトリア女王・アルバート公夫妻との関係は実に興味深い。研究書としては「主人公」を持ち上げる物語のように書きすぎているきらいはあるものの、パーマストンの業績から「外交とは」、「平和とは」を考えるヒントを与えてくれる著作だった。
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